ブラック・タイⅡ
「ブラック・タイ」とは何か? その意味と奥深さ

フォーマルウェアの世界で「ブラック・タイ」と言えば、それはすぐにディナー・ジャケット(タキシード)を指します。これはフォーマルの基本とも言える常識です。「ブラック・タイ(black tie)」とは文字通り「黒い蝶ネクタイ」のことですが、実は一つ省略されている要素があります。それは素材がシルク(絹)であること。本来は「ブラック・シルク・タイ」と呼ぶべきもので、フォーマルな場で使われる黒い蝶ネクタイは、黒いシルク製以外には考えられないのです。
シルクとリネン──格式の違い
なぜ「シルク」でなければならないのか?それは、最上級の正装である「ホワイト・タイ」と対応しているからです。ホワイト・タイのネクタイは白いリネン(麻)製で、結び直しができません。そのため、19世紀の英国紳士たちは、ホワイト・タイを身につける時に「今宵限りの一度きりの夜」という気持ちを込めていたのです。まさに日本で言う「一期一会」の精神に近いものでした。
一方、ブラック・タイはシルク素材なので、結び直しが可能。そこに「略礼装」としての実用性と柔軟さがあるのです。
ディナー・ジャケットは"軽い"装いではない
こうした背景を持つブラック・タイですが、決して軽んじられるものではありません。20世紀初頭の英国紳士たちは、むしろ燕尾服よりもディナー・ジャケットの方が着こなしが難しいと考えていた節があります。
この点をよく表しているのが、作家サマセット・モームの小説『アシェンデン』です。1910年代の英国が舞台で、モーム自身の実体験をもとにしたフィクションとされています。作中で、主人公がロシアを訪れ、英国大使であるハーバート卿(仮名)に自宅でのディナーに招かれる場面があります。
「ハーバート卿はタキシードを着ていた。これは男にとって非常に着こなしが難しい服だが、大使はそれを見事に着こなしていた。」
この描写からも分かるように、ディナー・ジャケットには独特の「寛ぎ(くつろぎ)」が求められます。しかしこの「寛ぎ」は、単なるラフさではなく、何十着もの燕尾服を着こなしてきた経験の上に成り立つ"余裕"なのです。つまり、ディナー・ジャケットで自然に寛いで見える人は、それだけ格式ある装いを深く理解し、身につけてきた人物だと言えるでしょう。