KINDWARE
HUNTSMAN and KINDWARE Partnership Signing

HUNTSMANとKINDWARE
歴史的パートナーシップの舞台裏

第一章

HUNTSMAN Royal Warrant
HUNTSMAN Riding Jackets

WATAKIの長い歴史において、エポックメーキングになるような事がいくつかあった。それにより当社は業界における不動の地位を一つずつ築き上げていった。その中で一番重要なのがHUNTSMANとの提携であった。4代目渡邊喜雄が入社した1970年は、高度成長期の真っ只中。当社がフォーマル専業メーカーとして全国百貨店にコーナーを作り、急成長していた時期。しかし、ライバルの企業が台頭し、大手百貨店を中心に巨大な勢力を築いていた。

そこで、フォーマルのプライベートブランドを確立すべく、海外の提携先を探すこととなった。4代目は幸いにも英語ができたこともあり、入社早々英国に渡った。当時、パートナーであった丸紅に協力を依頼し、10社ほどの提携候補先リストを作成してもらった。その中に、HUNTSMAN社だけはカッコ書きで「最高級で尚且提携はほとんど不可能」という様な表記で書かれていた。若気の至りだったのかもしれないが、血気盛んな4代目は、「提携するならナンバーワンとすべきだ。難しいが効果は大である。逆に二番手と安易な提携をすれば弱い者同士の発想で企業のプラスにはならない。」などと信じ、HUNTSMAN社へ飛び込むことに決めた。

1971年、応対に出たのはHUNTSMANグループの営業総責任者Mr. Lintottだった。いつも笑顔を絶やさず、しかし鷹の様に鋭い目で、威厳を感じさせた。これに臆してはと思い、4代目はカインドウェアの長い歴史、そして宮内庁御用達を含め、最高級の日本のスーツメーカーであることを滔々と語った。Mr.Lintottは正直に、「今まで会った日本の企業にはほとんど興味がなかったが、君の会社は面白そうだ。今オーナーは不在なので、戻り次第相談をして返事をする。」との事でその日は終わった。

しばらくすると、先方から提携を前提に話し合いを進めてもいいと手紙が届いた。丁度Mr.Lintottも日本に来る予定があったということで、日本で交渉する事となった。4代目はその時の心境を「正直言って、しんどかった」と回想する。なぜなら、詰めようがないくらい金額の開きがあったからだ。だが、両社は徹底的に議論をくり返し、最終的に合意に至ったのだ。

しかしながら、激しい議論だったのでなかなかお互いの気持ちが納められなかったような、気まずい合意となってしまった。その晩はセレモニーとして当社が夕食会をセットアップした。ここで暗い雰囲気を一掃する、思いがけない事態が起きる。

第二章

HUNTSMAN Store Interior

夕食会が進み、飲むお酒の量が増えてきたころ、Mr.Lintottはあまり触れたくない第二次世界大戦の話を3代目渡邊国雄から出された時重い口を開いた。「私はビルマで日本軍と戦った。激しい戦闘だった。特にあの丘の攻防戦は忘れられないものがある。」と丘の名前を言ったところ、3代目は「なんと!私もそこに居た。あなたのちょうど反対側の丘で対峙して英国軍と戦っていた。」と驚きまじりに話し出した。なんと3代目とMr.Lintottは同じ戦場で、しかも見える所で撃ち合っていた戦友だったのだ。二人は驚き、お互いを無言のまま数秒見つめ合い、そこから一気に雰囲気が変わり、肩を抱き合って戦友との再会を喜んだ。4代目喜雄の世代では体験しない、厳しい戦場における心の友の再会だったのだ。そしてそれは忘れ得ぬ素晴らしい光景となった。

しばらくして、英国に帰国したMr.Lintottから契約書が送られてきたのだが、なんとたったの4ページだった。それに比べ、その当時契約していたアメリカ企業の契約書は200~300ページあったので、信じられないような薄さだ。HUNTSMAN社に問い合わせたところ、「これは"Gentleman's Agreement"(紳士の約束)である。よって細かな事は信用するしかない。」と素晴らしい答えが返ってきたのだ。早速、伊勢丹百貨店に連絡をし、伊勢丹を中心としたHUNTSMAN展開を提案した。すぐに伊勢丹百貨店から「信じられない。あのHUNTSMAN社と提携ができたのか。」と連絡があった。それというのも当時伊勢丹百貨店の商品責任者の方が若い時代に何度も通って提携を打診したのだが、面会が一回も叶わずけんもほろろに帰されたとのことで、そのHUNTSMANとWATAKIが提携できたという事に驚いたようであった。

数か月後、提携を発表すべく、HUNTSMANのオーナーであるMr.Packerが来日した。伊勢丹百貨店は、すぐに小菅社長(当時の伊勢丹オーナー)との面会をアレンジしてくれた。また、別に記者発表も行う運びとなった。ここでまた驚きの事態が起きる。Mr.Packerが「せっかく日本に来たので、英国大使館を訪問したい。」と言われたので4代目はMr.Packerを大使館にお連れしたところ、すぐに部屋に案内された。そこは窓から素晴らしい日本庭園が見える落ち着いた英国風の応接間であった。しばらくすると羽織袴を着た熟年の日本人の給仕がでてきてビスケットとお茶が振る舞われ、すぐ後から一人の小柄な男性が現れた。Mr.Packerとその人はしばらく楽しそうに話をしていたが、4代目はとても内容についていくことができなかった。気になった4代目は英国大使館を出たところで、「今日は誰と会ったのですか?」と質問をした。Mr.Packerはさりげなく「あれは英国大使だよ。」と答えたのだ。英国大使が電話一本で会ってくれるとは、Mr.Packerは只者ではないと4代目は感じた。Mr.Packerは続けて、「記者発表の時には大使が他のスケジュールを調整してでも出席をすると言ってくれた。」との事だった。早速、伊勢丹百貨店にこれを伝えたところ大騒動になった。記者発表の会場が帝国ホテルに変更になり、そして急遽小菅社長も出席する事となった。記者発表もWATAKI史上見たことがないくらいの数の新聞記者が集まった。

最終章

HUNTSMAN Savile Row Shop Front
Partnership Celebration

HUNTSMANは当時、注文靴のMaxwellという会社を所有していた。これはあの有名な英国近衛兵の騎馬隊のブーツの注文をはじめ、アメリカのArnold Palmerをはじめ、名だたるプロゴルファーのシューズも作っている最高級の靴屋だ。ある日、4代目はMaxwellで作った靴を履き東京ホテルオークラに入っている靴屋に磨きに行ったところ、靴磨きが靴を見るなり、「素晴らしい、これは英国のMaxwell社の靴ですね」と言い当てたのだ。またハンツマンの製品はヨーロッパの王室のほとんど全ての御用達をしており、更にフランス大統領、ケネディー家など、世界の超一流の政治家、またロスチャイルドをはじめとする名門の人達をお客様にもっていた。当時のハリウッドの男性衣裳はHUNTSMANの物が多かった。また、初期の『007』もHUNTSMANの服が作品内で使われていた。最近では、世界的にヒットした映画『Kingsman』のモデルになったのがHUNTSMANで、サビル・ロウにある店舗も劇中に登場した。

世界最高峰テーラーブランドのHUNTSMANと提携したことで「世界の頂点」と感じさせる体験を4代目は様々なところでした。その一つは、Pierre Cardinのパリ事務所を訪れた際に、Pierre Cardin側近の方が「P.C.の原型はハンツマンから来た。」と言った事。また、アメリカへ行った時は、Ralph Laurenの事業パートナーが「ポロの原型はHUNTSMANの服です。Ralph Laurenは駆け出しの頃、英国のHackettという古着屋に行ってHUNTSMANの古着を買ってはサンプルとしてアメリカに持ち帰りました。」と言ったことだった。

契約がスタートして早速、WATAKIはHUNTSMANの服を基にサンプルを作り英国に送った。同時に秋冬の生産もスタートしなければならなかったので工場でも同時に縫い始めていた。そこに突然一通の電報が舞い込んだ。「今すぐ生産を中止せよ。このサンプルではHUNTSMANは承認しない。」3代目國雄もどうしていいかわからず、HUNTSMANから急遽指導に来てもらう事になった。基本パターンから全て修正され、縫製の仕方から何から、今まで当社が経験したことの無い厳しい指導を繰り返し受けた。高度な技術に当社の技術者の大半は理解する事ができなかった。明治時代の職人から教わった技術の継承であったため、本質的なところがおさえられていなかったのだ。4代目喜雄も勉強すべく、通算半年くらいHUNTSMANの工場に入って勉強した。そこで学んだ1つが、「メジャーを使うより、自分の目を信頼せよ。正確なメジャリングよりも、目にどう映るかである。自分の目でおかしいと思ったら正確に測り直せ。」だった。

1990年になると、Mr.Packerから「引退するのでHUNTSMANをしかるべきところに売却したい」と驚きの打診があった。早速に金額を提示したところ、しばらくして受諾の連絡があった。当時WATAKIが世界の頂点の会社を傘下に収めた瞬間であった。しかし、1999年にはHUNTSMANを売却する事となった。英国の大不況、また海外で経営ができる人材がいなかった事に起因する。英国の大事な財産であるHUNTSMANを英国人の手で再度経営してもらう事に決め、譲渡契約することにした。ただし、日本におけるHUNTSMANブランド商標権は引き続き保有し、HUNTSMAN創業家の思いを紡ぎながら、今も世界最高の服をつくっている。