
まず、「人はなぜ服を着るのか」という問いがあります。地球上に無数に存在する動物の中で、自らの意思で服を着たり脱いだりするのは人間だけです。この問いに対するもっとも一般的な答えは「羞恥心」でしょう。人間には恥じらいの感情があるからこそ、体を覆い隠す手段として服を着る――そう説明されることが多いのです。もちろん、服を着る理由はそれだけではありませんが、「羞恥心」は最も根本的な動機といえるでしょう。
では、もう一歩進んで、「人はなぜフォーマルウェアを着るのか」を考えてみましょう。どれだけ自由な感性を持つ人であっても、親しい友人の結婚式にTシャツで出席することはまずありません。たいていは、何らかのフォーマルな服装を身にまとって現れるはずです。
この問いを考える手がかりとして、オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』が挙げられます。1890年に発表されたこの作品は、美青年ドリアン・グレイを中心に展開され、彼の肖像画を描く画家バジル、そしてその親友で皮肉屋のヘンリー卿が登場します。ヘンリー卿は、オスカー・ワイルド自身の分身とも言われています。
作中でヘンリー卿はこう語ります。「われわれが野蛮人でないことを世間の連中に忘れさせないためにも、夜会服に白の蝶ネクタイをつけていれば……。」彼は辛辣な人物ですが、このセリフには真理が含まれています。「夜会服」とは、現在でいうところの燕尾服。つまり、フォーマルウェアを着ることは、私たちが「野蛮ではなく教養ある存在」であることを示す行為なのです。
人がフォーマルウェアを身にまとうのは、単なる習慣や礼儀のためではなく、自らの文化的・社会的成熟を示すため。それが、オスカー・ワイルドの時代から変わらぬ、人間らしい選択なのです。