イカ胸
フォーマル・ドレスシャツと「イカ胸」の話


フォーマルウェアを着用する際、まず身につけるべきは専用のドレスシャツです。一般に「フォーマル・ドレスシャツ」と呼ばれるもので、これには特有のしきたりがあります。その特徴のひとつが、前身頃が硬く糊付けされているという点です。この硬い胸部は、日本では俗に「イカ胸」と呼ばれます。干物のスルメ――つまり「イカ」に似ていることから生まれた呼称です。
スルメとシャツ、意外な関係
かつて日本の家庭では、火鉢でスルメを炙って食べる風景が日常的にありました。細く裂いたスルメは、ちょっとした和製チューインガムのような存在。しかし、そのスルメも炙った後、時間が経つとカチカチに硬くなります。つまり、「イカ胸」とはスルメのように硬く糊付けされたシャツの胸を指すのです。
この表現は、幕末から明治初期にかけて西洋服を手がけた職人たちの言語感覚の鋭さを物語っています。実際、当時のドレスシャツの胸は、叩けば音が鳴るほどに硬く仕上げられていたといいます。その"音"が、正式なドレスシャツとそうでないものとの境界でもあったのです。
「スティフ・ブザム」という概念
英語ではこの「イカ胸」をstiff bosom(スティフ・ブザム)と呼びます。「硬く糊付けされた胸部」という意味です。では、なぜそこまで硬くする必要があったのでしょうか?それは、シャツの胸部を「下着ではない」と示すためでした。
下着を見せない矜持
19世紀のイギリスでは、上流階級において下着を人前に見せることは最大の恥とされていました。シャツそのものが「下着」と見なされていた時代、胸元が見えるのを避けるため、布を切り替え、そこに糊を効かせてカチッと仕立てるようになったのです。糊付けされた胸元は、シャツ本来の「下着」的性質を上着的なものへと昇華させる工夫でした。こうして生まれたのが、スティフ・ブザム――フォーマル・ドレスシャツの象徴なのです。
ボタンではなく「スタッド」
もうひとつのこだわりが、「スタッド(stud)」と呼ばれる飾りボタンの使用です。シャツの前開きを閉じる一般的な貝ボタンも、当時は「下着っぽい」とされ、敬遠されていました。そこで採用されたのが、より装飾的で形式的なスタッド。これがフォーマルシャツの正統的なフロント留め具となったのです。スタッドが2個、3個と並ぶ場合は「スタッズ(studs)」と呼ばれます。中でも最も格式高いフォーマルシャツは、わずか1個のスタッドで留められるほど胸が硬く作られているのが理想とされました。2個、3個、さらには4個のスタッズを使うシャツも存在しますが、それらは略式(セミフォーマル)とされ、最上級の正装とは区別されるのです。このように、たかがシャツ、されどシャツ。そこには時代背景と格式、そして服飾文化の哲学が詰まっています。