燕尾服
タキシードと日本の紳士

タキシードが誕生したのは、1886年10月10日のこと。場所はアメリカ・ニューヨーク州の「タキシード・パーク」でした。この日、社交クラブ「タキシード・クラブ」の秋の舞踏会が開かれ、そこで「テイルレス・イヴニング(裾のない夜会服)」がクラブの制服として採用されたのです。このクラブは、たばこ産業で成功したグリスワルド・ロリラードが主催したもので、これが「タキシード(tuxedo)」という名前の由来となりました。
では、同じ1886年(日本では明治19年)、日本はどうだったのでしょうか?当時の日本では、社交の場として有名な「鹿鳴館(ろくめいかん)」が華やかな時代でした。鹿鳴館は明治16年に建てられ、場所は現在の帝国ホテル付近。設計はジョサイア・コンドル、建設は大倉組(現在の大成建設の前身)が手がけました。2階には約100坪の舞踏室もありました。
明治19年2月28日の『郵便報知新聞』には、こんな記事が載っています:
「これまでは"紳士"と呼ばれる人たちが、燕尾服ではない不適切な服装でやって来て、受付で注意されて帰されることもあった……」
つまり、鹿鳴館の夜会に招かれたものの、正しいイヴニング・ドレス(燕尾服)でなかったため、入場を断られた人もいた、という話です。フォーマルウェアは社交のルールでもあるため、服装に厳格な決まりがあるのは当然と言えるでしょう。
このエピソードから、明治時代の日本でも燕尾服が正式な礼装として認識されていた様子がうかがえます。